別唐晶司の作品について
実生活では、某病院の眼科部長、某大学臨床教授をつとめる作家・別唐晶司の作品を紹介するページ。
書いている田崎は(別唐氏の高校時代のクラスメートではあるが)作家本人と公式の関係はない一人のファンです(詳しくはこちらの日記をご覧ください)。
以下、作品に関するネタバレは基本的にありません。
別唐晶司作品庫
螺旋の肖像
- 1992年「新潮」11月号掲載
- 第24回新潮新人賞受賞作
・・・僅かな時間ではあるが、かれは実験の手を休め、窓外に広がる風景に視線を漂わせていた。太陽光線を受けて銀色に輝くモノレールが視界を左から右へとゆっくりと通過していく。と、その時、かれの心中に奇妙な感慨とでも言うべきものが加速度的に浸食し始めた。切ないような悲しいような哀れなような虚しいような恐ろしいような取り留めもない感情が不規則なリズムで染みが広がっていくように拡散していった。それに続いて、今度は肉体的変調がじわりじわりと迫ってきた。胸が圧迫され、呼吸が苦しくなり、心臓は激しく鼓動して全身を震わした。かれはどう対処すべきか混乱していた。そのうち、思考速度が急激に落ちていき、意識も朦朧としてきた。腸管が激しく蠕動し、胃は痙攣している。消化管の中の内容物が塊となって逆流し口腔へと攻め押し寄せてくる。顔面に苦悶の表情が伝播していく。耐え切れなくなって一気に嘔吐する。・・・別唐晶司のデビュー作。遺伝子操作など現代のバイオ技術をテーマにして、医学部の大学院に在学中の著者が力業で作り上げた物語=世界。
単行本にはなっていないので、「新潮」のバックナンバーを図書館などで借り出して読む必要がある。その際に、重要な注意があるので述べておこう。
これは「新潮新人賞発表」の特別号なので、p 6 に受賞者二人の顔写真(←別唐氏の知り合いなら楽しめるだろう)とコメントがあり、それに続いて選評がのっている。本人の写真とコメントは見てもいいが、左側の選評のページは絶対に見ないで、p 11 の本文に進むこと!
信じがたいことだが、作品よりも前に置いてあるこれら選評のなかには、作品に関する露骨なネタバレが含まれている(作品をどう評価しようと勝手だが、人が読む前にネタバレするか?? この選者たちは、(作品の理解力があるかどうかとかいうレベル以前に)ほんとうに読書が好きなのかどうかさえ疑われる)。
さらに、多くの選者は、この「ひどい話」を勝手にかつ無理に「普通の小説」だと誤解して、けっこう好き勝手な評を述べている。無理にそう思って読めばそういう感想がでてくるとは思うけど、それは違うような気がする。というわけで、これだけの誤解に囲まれながらも賞をとったという事実にかえって感心してしまう。
メタリック
いや、正確にいうと、わたしが今こうして監視窓を通して見つめているかれとはかれの一部分であり、もっと正確に医学的にいうならば、わたしの視線の先にあるかれとはかれの大脳、小脳及び延髄である。眼球はなく、硬膜に覆われているため、いわゆる脳の皺を形成する大脳回及び大脳溝は明瞭ではない。全体はシリコン製の透明な人工頭蓋で覆われ、頭蓋内圧は生理的状態に保たれている。動脈系として左右の内頸動脈と椎骨動脈に、静脈系として左右の内頸静脈にそれぞれ MS コネクターを介してコラーゲンチューブが接続されている。・・・・
おれがいる。人間から摘出した脳だけを生存させるという「医療技術」を核にした SF 風味の長編の文学作品。
水銀を一面に塗りたくられたような壁に囲まれておれがいる。床にはマイクロチップの回路のように細かい精緻な配線が眩暈を誘発せんばかりに描かれている。余分な突起や夾雑物は見当たらない。部屋の空気はやや希薄で室温は四度に保たれている。
なんてメタリックな空間なんだ。
「わたし」と「おれ」の二つの一人称がそれぞれの「今」と「過去」を語る。合計で四つの視点が絡み合うことになるが、それを意識させず、かえって飽きさせずに、すらすらと物語として読ませる構成はうまい。とくに後半から終盤への展開はすばらしい。
ぼくが罪を忘れないうちに
html 版へ- 1994年8月「VirtureFighterManiacs」(アスペクト)掲載
眼球内空気充填術
- 1996年「新潮」2月号掲載
瞳が現れる。視野のなかに「瞳」が現れる --- という、ある意味で、現代文学の王道を行くようなテーマなのだが、実は(以下略)。
かれの右視野の真んなかに浮かんでいる。イチ・ニ、イチ・ニと頭のなかで、かれは正確にアンダンテのリズムを刻み始める。そのリズムに導かれるように、体がゼンマイ仕掛けの自動人形のように動きだす。そして、瞳を消すための空気充填術(エアータンポナーデ)が始まる。
様々な眼の状態や眼への施術の描写は眼科医である別唐の本領発揮。すさまじいリアリティがある。ぼくにとっては、きわめて印象が強く、記憶に残る作品。
あしたをはる
html 版へ、縦書き文庫版へ
HyperLink小説第1作
- 2009年2月 初版UP
2010年2月 HTML版UP
ぼくにとっては最初に接した別唐作品だったわけだが、彼の作品を時系列順に読んできた人は、ここに来て彼が一気に「ゆるみ」と「遊び」のある作品を書き出したことに驚くにちがいない。こういうのって、やっぱり現実の人生の余裕みたいなものが反映しているのだろうか? 読み終わったあとも、ある種の雰囲気が心に残る魅力的な作品だ。やっぱり文章うまいなあ。電脳世界の空気や人々の様子そして祭りの喧噪・狂騒の描写は生き生きとしていて、リアリティを感じる、じゃないな、ヴァーチュアルリアリティを感じる。
水は答えを知っている
関連する項目をまとめた、「水からの伝言」を信じないでくださいというページを作成しましたので、そちらもご覧ください(2006年11月)。
末尾の付録に、「水からの伝言」関係の簡単なリンク集があります。
- 作者: 江本勝
- 出版社/メーカー: サンマーク出版
- 発売日: 2001/11/01
- メディア: 単行本
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背景、そして、私はなぜこの本を読んだか
いわゆる「水からの伝言」をめぐる物語をご存知ない読者もいらっしゃるだろうから、そのあたりから話をはじめよう。なぜ私がこの本を手に取ったかの説明にもなる。
本書の著者の江本勝氏は、株式会社 IHM の設立者(現在は、会長)。IHM は、「波動と水を科学する」というキャッチフレーズを掲げて、出版や「波動医学」関連の商品(たとえば、波動測定器(189万円))の販売をおこなっている会社のようである(私に詳細な知識はないので、詳しくはリンク先のページをご覧いただきたい)。明らかに「ニセ科学」の要素のはいったご商売だと思うが、ここでは、その点は問題にしない(「ニセ科学」については、大阪大学の菊池誠さん(私の友人の物理学者)の「『ニセ科学』入門」という文章をご覧いただきたい)。
話の発端になるのは、この会社が出した「水からの伝言」という氷の結晶の写真集である。単に氷の結晶の美しい写真を並べた本ならば、とりたてて話題にすることはないのだが、これには、「『ありがとう』という文字をみせた水」と「『ばかやろう』という文字をみせた水」の結晶なるものの写真がのっているのだ。前者は美しい六角形の結晶で、後者は結晶になりそこなった醜いばらばらのかたまり。つまり、水は「よい言葉」に反応して美しい姿を見せるというのである。
これだけなら、ただのおとぎ話だと思えばいいのだろうが*1、おどろくべきことに、これらの結晶の写真が小学校での授業に使われているというのだ(そのような動きに IHM がどこまで関わっているのかは私は知らない)。これについては、天羽優子さん(山形大学の物理学者)によるまとめが詳しいが、簡単にいえば、子供たちに美しい結晶と汚い氷の写真を見せ、それぞれが「ありがとう」と「ばかやろう」を見せた水の結晶だと教える。そして、人体の大部分も水なのだということを強調した上で、単なる水でさえ「ばかやろう」を見るとこうなってしまうのだから、お友達に「ばかやろう」というのはやめよう、「ありがとう」と言おうね --- と道徳のお話にもっていくということのようだ(好意的な実例報告のページ)。残念ながら、いったい何校くらいの小学校でどの程度の規模の授業がおこなわれたのかというデーターはないが、私の知人の息子さんの小学校でも授業があったらしいし、同僚のお子さんの幼稚園では母の会で江本氏の著作が(もちろん好意的に)回覧されたそうだ。ネット上での報告を見ていると数を過大評価してしまう危険があるのだが、このように直接の知り合いから事例が聞けるということは、かなり浸透していることの表れだといっていいと思う。
私はいわゆる「ニセ科学」の類にはどちらかというと寛容な方なのだが、「水からの伝言」が小学校での授業に用いられているということを知って、つよい衝撃を受けた。このような動きは、教育への大きな脅威であり、決して認められないことだと考えている。科学者、教育者として、というより、一人の人間として、そのようなまちがった教育が広がっていくことを食い止めるために、何かをしなくてはならないという思いを抱いている。
多くの読者には無用な説明だろうし、上にあげた天羽さんのまとめと重複するところもあるが、念のために、「水からの伝言」を道徳の教材に用いることについて、根本的でかつ深刻だと思える問題点をまとめておこう(菊地さんが小学校の先生に配ったレジュメも簡潔で役に立つ)。これらの点のいくつかについては、この先でもより詳しく議論する。
- 現代の科学の知見と照らし合わせたとき、「水の結晶の形が文字の意味内容の影響を受ける」ということは、かぎりなく確実に、あり得ない。「科学では未だ解明されていない」だけなのではないかという主張を聞くことがあるが、そうではない。この場合は、単に「科学的に(ほぼ確実に)あり得ないこと」あるいは「膨大な経験にもとづく科学の知見とまったく整合しないこと」に過ぎないのだ。
「『ばかやろう』と言うのはいけないことだ」ということを子供たちに手っ取り早くなっとくさせたいという動機はわからないでもない。しかし、たとえ都合のいい結論がでてくるからといって、事実ではあり得ない(ことがきわめて確からしい)理由付けをしてはいけない。さらに、「文字の内容が自然現象に影響を与える」というのは、相当にねじまがった人間中心の自然観だと感じる。幼い子供たちをそのような自然観に接触させることは、子供たちがこれから自然とどうかかわりながら成長していくかを考えたとき、とんでもない害になりうると私は考えている。
さらに、この話には、道徳としての側面だけをみても、大いに問題があると思う。
- 何が「よい言葉」で何が「悪い言葉」かというのは、人間の心にかかわる深い問題だ。それは、人間が、自分の心と頭でしっかりと感じ考えて、時間をかけて答を出していくべき問題のはずだ。だが、ここでは、水に見せてやることで言葉のよしあしが決まることになっている。それなら、人間は自分で道徳的・倫理的な判断をしなくても、水に答を聞けばいいということになってしまう。誰か(何か)に聞けば答がわかるというのはもっとも安直で薄い道徳ではないだろうか?
- また、「水からの伝言」では、無反省に、形の整った美しい結晶がよい言葉に対応するとされる。「形の整ったものがよいものだ」などということを道徳で教えてしまっていいものなのか? ものごとを見た目だけで判断してはいけないというのは、道徳の大切なテーマの一つではないのだろうか?
このような授業が多くの小学校でおこなわれたという事実、そしてそれ以上に、少なからぬ小学校の先生が「水からの伝言」は適切な教材だと判断したという事実に、私はつよい衝撃を受けたのだ。誰もが日常的に、インターネットや携帯電話を利用し、宇宙から眺めた地球の姿を目にする時代に、ある程度以上の教育を受けた知識人・教育者が、このような真性の「ニセ科学」と薄っぺらな道徳の混合物に疑問を感じなかったことに、つよい恐怖を感じたのである。これは、単に「水からの伝言」を取り上げた教師たちを批判すれば片がつくような問題ではない。科学がいよいよ「魔法」のように見えてくる時代にあって、いったい理科教育は何をしてきたのか、そして何をすればいいのかという重い疑問をつきつけてくる問題だと思う。もちろんこの書評でこの問題に深入りする気はない。これは、私たちが長い時間をかけて考えていかなくてはならない課題だ。
感想文の前書きに相当する部分もようやくおわりに近づいてきた。
私は、小学校の教室にまで広まった「水からの伝言」とはいったいどういうものか、ともかく(本業である教育と研究の合間の時間を割いて)この目で確かめようと思い、書店の「ヒーリング」のコーナーに平積みになっていた本書を購入した。これは江本氏の文章と彼らが撮影した氷の結晶の写真をあわせて掲載した本で、「水からの伝言」に関わる物語を知るには格好の読み物のようである。1600 円+税というやや高めの本だが、帯によれば、日本国内で20万部突破、世界18カ国語に翻訳されて、計50万部突破という大ベストセラーらしい。カラー図版も多く、やわらかい文章ですらすらと読める本だったので、そのまま通読した。そして、半ば予期していたことだが、これを読んだからといって、何かがわかるわけでもないし、次に何をすべきかが見えるわけでもないことをはっきりとなっとくした。また、プロの科学者が本気になってあら探しや批判をするような本でもないということも、読んでみて痛感した。そして何よりも、この本の内容に気楽に共感してしまった教育者がたくさんいたという事実にあらためてつよい無力感をおぼえた。
ともかく、以下、これがどういう本であるか --- より正確にいえば、私の目にはどういう本と写ったか --- を紹介してみようと思う。
この本を貫く「わかりやすさ」
プロローグを読むだけでも、本書を(そして、おそらくは、江本氏の「思想」を)貫く一つの特徴が見えてくる。まず、現代は「カオスの時代」で人々は誰もが疲労困憊しているという嘆きにつづいて、
だれもが、このアリ地獄のような世界の中で、救いを求めています。だれもが答えを求めているのです。その一言で世界が救われるような、シンプルで決定的な答えを、さがしつづけているのです。(p.11)
と問題提起をする。
しかし、人類が長い歴史の中で失敗をくり返しながら学んできたのは、すべてを解決する魔法の一言などは存在せず、われわれが世界をよりよくしていくためには、試行錯誤しながら(時には絶望しながらも)ひたすら地道な努力を続けていく以外にはないということだったと私などは信じている。江本氏も当然そういう話をつづけるのかと思ったのだが、それはあっさり裏切られた。
私は、ここで、それ*2を提示したいと思っています。それは、人間の体は平均すると七〇%が水である、ということです。(p.12)
江本氏は単純明快な答えがあるという。そして、それは、人体の主成分は水であるというきわめて即物的な事実だというのだ。
これを読んだだけでも、江本氏の「思想」になにか危険なものを感じる人は少なくないと思う(あるいは、そう願う)。シンプルな答えがあると言い切ってしまうことは、往々にして、人々が、考え、悩み、工夫しながら、よりよい方向を目指して努力することを妨げてしまうと私は信じる。さらに、彼の用意した答えが「主成分が水」という、きわめて物質的なものだという事実には、すなおに驚いた。私は、人間を人間たらしめているのは、その成分などではなく、人間を構成している無数の要素のきわめて複雑な絡み合いだと信じている。「主成分が水」であることが重要だというのは、ずいぶんと人間を馬鹿にした結論のような気がするのだが。
いずれにせよ、
- 単純な結論(らしきもの)を提示する
- それは、きわめて即物的だ
というのが、本書を貫く一つの流れなのである。本書が大いにもてはやされているという事実は、悲しいかな、こういった議論を「わかりやすい」と感じる読者が多いことを意味しているのだろう。しかし、「シンプルな答えがある、それは主成分が水であることだ」という主張を、自分の人生と生活に即してほんとうに理解しなっとくするのは、とてつもなく難しいことなのではないのだろうか? この「わかりやすさ」は、単に、見た目と聴き心地の「わかりやすさ」であって、本当に深い何かが「腑に落ちる」という真の「わかりやすさ」ではないはずだ。
実際、本書では
あふれんばかりの愛と感謝で世界を包みましょう。それは、すばらしい「形の場」となって、世界を変えていきます。(p.142)
といった美しい「教え」がくり返される。しかし、その「愛と感謝」の実践については、「あなたが水を前にして、それに愛をこめ、感謝の言葉を投げかけるとき(p.142)」といった、どちらかというと「人間味」のない記述しかみられない。「愛と感謝」を大切にして生きていきましょうという提案はすてきだと思うが、そういう美しいお題目を、現実の人生にどうやって活かしていけばよいのかはまったく当たり前ではない。というより、古来から、多くの宗教の実践者が、宗教の理想と複雑で泥臭い現実との折り合いをどうやってつけていくかについて、苦しみ、模索をつづけてきたのではなかったのか? 愛と感謝を実践しながら貧しくも清く生きてきた民の土地に、強い軍国が攻め込んで支配と搾取をはじめたとき、愛と感謝の民はいったいどうすればいいのか? あるいは、テレビの人生相談にでてくるような、誰が悪くて誰が正しいのかわからないような、ぐちゃぐちゃの人間模様に出会ったとき、どうやって愛と感謝を貫き、生きる道を決めていくのか? 本書には、そういう「泥臭い」人間の話はまったくといっていいほど登場しないのだ。おそらくは、そういう具体的なテーマについて話しはじめれば、いくらじょうずに話をすすめても、少なからぬ読者が「いや、世の中、それほど簡単じゃないでしょ」といった感想を持つようにになるのだろう。水を前にして愛と感謝を抱けば世界が変わっていくというシンプルな物の言い方は、読者に深い疑問を抱かせず、「わかりやすい」と思わせるのかも知れない。しかし、それで本当に人生や世界についての何かが「わかった」ことになるのだろうか?
単純で即物的で、いっけん「わかりやすい」説明は、これ以外にも、本書にたくさん登場する。たとえば、人間とそれ以外の生き物(みんな水が主成分だと思うが)の違いについては、
高等生物になればなるほど、体内にある元素の数はふえていきます。植物がもつ元素の数は、人間にくらべて極端に少なくなります。元素が少ないとどうなるのでしょうか。おそらく、感情がそれだけ少なくなってしまうのではないかと思います。痛いという感覚は他の動物にもあるでしょうが、悲しいとか感動したといった高度な感情は、人間とそれに近い動物しかもちえないのではないでしょうか。(p.106)
という説明がある。これは、もはや科学としての誤りを批判するといったレベルの文章ではないと思うのだが、いずれにせよ、私たちの感情を元素という基本的な素材に還元してしまうという発想は究極の「即物的なわかりやすい説明」だろう。いうまでもなく、感情というのは、私たちの脳(ひょっとすると、脳と体)が複雑な過程の末につくりだす何物かであって、決して、元素に対応するようなものではないというのが、多くの人の考えである。ちなみに、バクテリアから人間にいたるまで、すべての生物の体の質量の約 98 パーセントは、炭素、水素、窒素、酸素、リン、イオウというたった六つの元素からなっているそうだ。残りの部分の元素の豊富さが生物の種類によってどれほど異なっているのかは知らないが、少なくとも感情の有無とは関係がないと信じている。
また
私は、多くの人の健康相談にかかわってきた経験から、病気とはネガティブな感情によって引き起こされるものなのだと思い知らされました。原因となっている感情を消せれば、だれもが健康を取り戻すことができるのです。それには、努めてポジティブな感情をもつようにすることが大切です。(p.116)
というくだりは、「病は気から」という諺を徹底的に押し進めたものだが、単純な説明の好例だろう。
そして、きわめつけだと思ったのは、私たちの魂の起源という、ある意味で究極の宗教的・哲学的難問への実に「シンプルな」答えだ。
魂はどこから来たのでしょう。宇宙の果てから水にのってやってきたことは、いままでみてきたとおりです。(p.204)
水の結晶について
つづいて、小学校の授業でも取り上げられることになった水の結晶にかかわる部分をみることにしよう。
水の結晶写真を撮るために私が行っている具体的方法はこうです。
水を一種類ずつ五十個のシャーレに落とします(最初の数年間は百のシャーレでした)。これをマイナス二〇℃以下の冷凍庫で三時間ほど凍らせます。そうすると、表面張力によって丸く盛り上がった氷の粒がシャーレの上にできあがります。直径が一ミリほどの小さな粒です。これを一つずつ、氷の盛り上がった突起の部分に光をあてて顕微鏡でのぞくと、結晶があらわれるのです。
もちろん、五十個全部に同じような結晶があらわれるわけではありません。まったく結晶をつくらないものもあります。これらの結晶の形を統計にとり、グラフにしてみると、明らかに似た結晶があらわれる水と、まったく結晶ができない水、あるいは、くずれた結晶しかできない水など、それぞれの水のもつ性質がわかるのです。(p.21)
実験の詳細はわからないし、「統計にとり、グラフにしてみる」というのがどいういことかも、この記述からはわからない。もちろん、彼らは科学の論文を書いているわけではないし、理科の教材を作っているわけでもないから、厳密に科学的な実験をしてそれをきちんと記述しろなどと要求するつもりはない。
いずれにせよ、上の記述だけからでもうかがえるのは、これが、きわめてデリケートで再現性の低い実験だということだ。つまり、たとえ同じ条件(のつもり)で同じことをくり返したとしても、(湿度、温度、光の当たり方などなどの)ごく微妙な条件の違いのために実に様々な結果(つまり、結晶の形)が現れると考えられる。また、結晶の寿命は短いらしいので、それを人が顕微鏡でみつけて写真を撮るとなると、どういう写真が撮れるかは撮影する人の腕や心持ちにも大いに依存する可能性がある。
ともかく、彼らは、こうして水の結晶の写真を撮り、都市の水道水は結晶をつくらず自然水は美しい結晶を作るという結論を出したと主張する(この結果にも、私は不信感をもっている)。つづいて、水に音楽を聴かせて(本当に、スピーカーから聴かせるらしい)そのあとに作られる結晶をみるという実験の話になり、美しいクラシック音楽を聴かせた水は美しい結晶をつくり、ヘビーメタルの曲を聴かせた水はばらばらに壊れた結晶しか作らなかったと結論する(私はこの結論は信じない)。そして、きわめつけの、言葉を書いた紙を(ちゃんと水に見える向きにして)水を入れたガラス瓶に貼り付けておき、その後で水の結晶をみるという実験に話がうつる。
この結果は、まさにおどろくべきものになりました。「ありがとう」という言葉を見せた水は明らかに、六角形のきれいな形の結晶をつくりました。それに対して「ばかやろう」の文字を見せた水は、ヘビーメタルの音楽と同じく、結晶がばらばらに砕け散ってしまいました。
同じように、「しようね」という語りかけの言葉を貼った水は形の整った結晶になり、「しなさい」のほうの水は、結晶をつくることができませんでした。
この実験が教えてくれることは、私たちが日常口にしている言葉がいかに大切か、ということです。よい言葉を発すれば、そのバイブレーションは物をよい性質に変えて行きます。しかし悪い言葉を投げかければ、どんなものでも破壊の方向へと導いてしまうのです。(p.24)
前にも書いたように、今日の科学の知識と照らし合わせたとき、このような結果があり得ないことは断言できる。もともと実験がデリケートで結果にばらつきが大きいところに、実験をする人・データを整理する人の思いや希望などによるバイアスが自然にはいって、このような結論が浮かび上がってきてしまったと考えるべきだろう。別に意図的な捏造をしているといっているわけではない。捏造をする気がなくても、ある種の結論を期待していると、ついつい、それに一致する現象を余分に重みをつけてみつけてしまうのが、人間の性(さが)なのだ*3。
このように書くと、「しかし、科学は万能ではなく、科学によって理解できないこともあるはずだ」とか、「『水の結晶が言葉によって形を変える』というのは新しい現象であって、これはまだ科学で解明されていないことなのだ」といった反論をする人がでてくるかもしれない。それらの疑問にまじめに答えておこう。
まず、「科学は万能ではない」というのは、まさに、そのとおり。科学というのは、簡単に言えば、この世界を少しでもきちんと理解しようと、できる範囲内であらゆる努力をして、少しずつでもわれわれの知識と理解を深めていこうという営みのことだ。幸いにも、この世界はそう簡単に理解できるものではなかったので、未だにわからないことが山積みで、私たち科学者が人生をかけて挑戦する余地がたくさん残っている。「科学によって理解できないこともある」どころか、われわれのまわりは「科学で理解できないことばかり」と言っていいくらいだ。
そうは言っても、科学によってほぼ確実に理解できていることもある。たとえば、地球がおおよそ球形をした物質のかたまりであること、太陽は大きな光り輝く星であり、地球などの惑星は大ざっぱには太陽のまわりを楕円軌道を描いてまわっていること、などは、膨大な観察・実験・考察によって、ほとんど疑う余地がなく確立されている。もちろん、この世の中には絶対ということはない。たとえば、大地は亀の背中に乗っている丸い板で、太陽は空のレールを走っていく火の玉であり、宇宙船から地球をみた映像はみんな CG のインチキ、地球を一周して飛行機が飛べるというのも航空会社の詐欺・・・といった可能性が本当にゼロだと言い切ることは誰にもできない。しかし、そんな可能性が猛烈に低いことは誰が考えても確実だろう。
それとほとんど同じことで、科学の中のきわめて確実な部分を総合して考えれば、「水の結晶が言葉によって形を変える」可能性が猛烈に低いと結論するしかないのである。結晶の形成は純粋に物理的なプロセスであり、そこに「言葉」が入り込む余地はない。これは単に科学者の信念や信仰ではない。人類の歴史をとおして蓄積されてきた膨大な経験事実にもとづく、どうしようもない事実なのだ。科学(の確実なところ)というのは、単なるバラバラのお話の集まりではなく、異なった部分どうしが互いに矛盾なく深く関係し合い補強し合っている実にしっかしりた建造物なのである。その一部分だけを、都合に応じて気楽に入れ替えたり修正したりということは、易々とはできないようになっているのだ(実際の自然がそうなっていたことの反映だと考えられる)。もし「水の結晶が言葉によって形を変える」ということを科学に取り込まなくてはならないとすると、自然科学の根幹にまでおよぶ全面的な大手術が必要になるだろう。もちろん、「水の結晶が言葉によって形を変える」ことが真実だという十分な証拠が本当に得られるというようなことになれば、われわれ科学者は、(おそらくは大喜びで)科学の大変革に取り組むだろうと思う。しかし、そういうことがおきる可能性は、「亀の背中説」が復活するのと同程度にあり得ないことなのだ。
ここから先、さまざまな言葉をみせた水の結晶についての説明と、たくさんのカラー写真が並ぶのだが、それらをいちいち説明するのはやめておく(IHM のこちらのページでいくつかの例をみることができる)。それよりも、江本氏によるこの現象の説明をみておこう。
では、言葉を紙に書いて水に見せても結晶が変化するというのは、どのように解釈したらよいのでしょうか。書かれた文字自体にその形が発する固有の振動があり、水は文字のもっている固有の振動を感じることができると考えられます。
水はこの世界にあるすべての振動を忠実に写しとって、私たちに目に見える形に変えてくれます。水に文字を見せると、水はそれを振動ととらえ、そのイメージを具体的に表現するのです。文字というのは、言葉を視覚的に表現する発音記号のようなものだと考えられます。(p.73)
「発音記号って文字の一種なのでは?」というツッコミはともかく、ここに示された世界観には唖然とさせられた。紙の上のインクの濃淡のパターンでしかない文字列が、それを日本語(ないしは他の人間の言語)に従って解釈したときにもつ意味に相当する「波動」を発している。そして、その「波動」が、水に影響を与えて、文字列の意味と相関するような形の結晶をつくらせる、というのだ。
これは、もはや、科学的とかそういうレベルの話ではない。言葉が摩訶不思議な力をもち、ふわふわした神秘の存在が世界を動かしている、ファンタジーの世界だ。くり返すが、科学は気ままですてきなお話の集まりではない。こういう物語が科学的な世界の見方と共存できる可能性は完全にゼロだと言い切っていいだろう。本書のこの部分を読んだ上でも、「水からの伝言」を小学校の教材に使おうと考える人がどれくらいいるのだろう? さすがにそんな人はいないと考えたいのだが。
水の起源についての説に関しても、江本氏はファンタジーをふくらませる。まず、地球の水は宇宙空間から彗星によって供給されているという説(これは別にオカルト説ではないが、それほど信憑性は高くないようだ)を彼なりに紹介したあと、こうつづける。
水なしで生命が誕生しないのは、周知の事実です。生命の源である水が宇宙から届けられたということになると、私たち人間を含む生命は、みな地球外生命だということになってしまいます。(p.91)
たとえ水が惑星誕生の後に外からもたらされたものだとして、生命はあくまで地球で発生・進化した(そのことは江本氏も認めているようだ)のだから何故「地球外生命」ということになるのだろう? そもそも、地球を構成するすべての物質は、もともとは初期宇宙で合成されたもののはず。水の起源などという以前に、地球をつくっているすべての物質は宇宙から届けられたといっていいはずだ。
そんなことを思いながら続く段落を読むと、驚きが待っていた。
しかし、水が地球外からやってきたという説をとるなら、水のもつ数々の不思議な性質というものも理解できるのです。
なぜ氷が水に浮かぶのか、なぜ水がこれほどまでに物質を溶かしやすいのか、あるいは、タオルのすそを水に入れておくと、重力にさからって吸い上がってくるのはなぜか。こういった水の不可解なふるまいは、水がそもそも地球の物質ではないという観点から解釈すると、すんなり納得できるのです。(p.91--92)
氷が水に浮くように、ある物質の固体が液体に浮かぶというのは、実はそれほど珍しい話ではない。たとえばコンピューターの頭脳を支える物質であるシリコンの場合も、シリコン固体がシリコン融液に浮かぶことが知られている*4。タオルを水がのぼっていく毛細管現象は、多くの液体でみられるはずだ。だから、これらの性質はとくに「不可解」ではないのだ。しかし、この文章が驚きなのは、そういう理由からではない。
仮に水が「不可解」な性質をもっているのだとして、江本氏は、水の起源が宇宙にあると思いさえすれば、その不可解さが納得できると言っているのだ。ここまで来て、ようやく、彼が水の宇宙起源説にやたらと肩入れする理由がわかってきた気がする。おそらく、彼は、地上の物質と天上の物質とでは、その素性も性質も本質的に異なっているという世界観をもっているのだ! 言うまでもないだろうが、今日の自然科学では、地球は宇宙のなかの特別な場所ではなく、地上の物質も宇宙の物質も、同じ原子から作られ、同じ物理法則に従うという立場をとる(これも、絶対とはいえないわけだが、さまざまな証拠に支えられたきわめて確実に近い仮説だ)。もちろん、天上と地上を質の違う世界だとするファンタジーを思い描くことは自由だ。でも、それは、もはや科学と接点を求めるとか、いずれ科学的に証明されるかも知れないといった話の登場する余地のない、正真正銘のファンタジーに過ぎないのだ。
ついでにコメントしておけば、「不可思議なのは宇宙から来たからだ」というのも、江本流のいっけん「わかりやすい」(けれど、よく考えるとあまりよくわからない)シンプルな説明のよい例だろう。
最初の方で引用した
魂はどこから来たのでしょう。宇宙の果てから水にのってやってきたことは、いままでみてきたとおりです。(p.204)
という部分も、神秘なものは宇宙から来たというシンプルな世界観にもとづいて読んでこそ意味があるのだろう。
「波動」なるものについて
江本氏のバックグラウンドには、よく耳にする「波動」なるものがあり、「水からの伝言」をめぐる物語も「波動」によって理論的に裏付けられるとされているようだ。以下、ごく簡単に「波動」についての記述もみておこう。
まず、「波動」の基本について、
すべての存在はバイブレーションです。森羅万象は振動しており、それぞれが固有の周波数を発し、独特の波動をもっています。(p.67)
という説明がある。この部分は物理の言葉で解釈できないこともないが、そうすると、要するに物体は小さくみると振動しているというだけの話になってしまう。とりたてて「独特の波動」などとというべきおもしろい話にはならない(さらに、一般の物体はきちんと定まった固有の周波数はもたない)。しかし、それは物理学者の勝手な思いこみで、「波動」というのは科学者の知らない何か摩訶不思議な何物かだと思う方がしっくりくる。
そう思って読んでいるのだが、残念ながら、すぐあとに
しかし、いま量子力学などの科学の世界では、物質とは本来、振動にすぎないということが常識になっています。物を細かく分けていくと、すべては粒であり、波でもある、という不可解な世界に入っていくのです。(p.68)
という説明が登場してしまう。念のために断っておくと、私はプロの理論物理学者で、量子力学にもかなり深く精通している。たしかに、量子力学の直感的な説明のなかで「すべての粒子は、粒子と波の両方の性質をもつ」といった言い方があらわれるのだが、そこから「物質とは本来、振動にすぎない」などという結論はでてこない。量子力学というのは厳密な数学をつかって書き表される物理学の理論であり、何かわけのわからないことを正当化してくれるようなおとぎ話ではないのだ*5。もともと、「すべての物は目に見えない何物かを発している」というファンタジーを語りたいのだから、量子力学など持ち出す必要はまったくないのだ。とはいえ、そのすぐ先には
さて、万物が振動しているということは、どんなもので音を出しているといいかえてもよいでしょう。(p.72)
と書いてあり、こちらとしては「けっきょく、音かよっ!」とつっこむことしかできなくなってしまう(もちろん、量子力学で「すべての粒子は波でもある」というときの「波」と音は何の関係もない)。
「波動」がらみの話は、江本流の滅茶苦茶のオンパレードの感がある。ここにも、
私が日本で初めて紹介した波動測定器は、このことを見事に証明してくれました。波動測定器とは、物質がおのおのもっている固有の振動を測定し、水などに転写する機械です。
私は、この機械を使って多くの人たちの波動を測定してきました。それによって、人間のネガティブな感情の波動が、それぞれの元素のもつ波動と対応しているということがわかったのです。
たとえば、いらだちの感情は水銀と同じ波動であり、怒りは鉛、悲しみやさびしさはアルミニウムとほぼ同じ波動でした。同じように、心配、不安はカドミウム、迷いは鉄、人間関係のストレスは亜鉛などが、お互いに結びついていたのです。(p.107)
というように、人間の感情を元素に結びつけてしまうシンプルで「わかりやすい」説明が登場する。この話が、量子力学とも、音波の物理学とも、それ以外のいかなる科学とも結びつかないことはもはや言うまでもないだろう。ここに登場した「波動測定器」というのも当然ながら実に怪しいものなのだが、この書評ではそこまでは議論しない*6。
こうしてファンタジーの世界にどっぷり浸かっているかと思うと、江本氏は、例によって断片的に科学を引用する。たとえば p.110 では逆位相の音波を人工的に発生させて騒音を軽減する技術の話を紹介している。これは実際に研究され応用されているまっとうな技術の話だ。そこからファンタジーへの飛躍は、波の物理を知っている人にはちょっと笑える。やや不謹慎だけど、書き写しておこう。
人間の感情も同じことがいえます。ネガティブな感情には、それと反対のポジティブな感情があるのです。次のような二つの感情が、正反対の波形をもちあわせているのです。恨み--感謝、怒り--やさしさ、恐怖--勇気、不安--安心、いらいら--落ち着き、プレッシャー--平常心(p.111)
波を打ち消せるのは同じ振動数で逆位相の波。異なった感情の「波動」は異なった振動数をもつはずだったんだよね --- などと、ファンタジーにつっこむのは野暮だとわかってはいるのだが・・・
さいごに
「水からの伝言」をめぐる物語は、どんなに大目に見ても、ただのファンタジーでしかない。「実験」とか「量子力学」といったキーワードがばらまかれているために科学的だと誤解する人がいるのかもしれないが、これは、しっかりと確立した科学と照らし合わせれば誤りであるとしか考えられない物語なのである*7。
もちろん、ファンタジーのなかに「実験」とか「科学」とかいう言葉を使ってはいけないという法はないし、科学者にそういうことをやめさせる権利などない。しかし、教育者・科学者として(それ以前に、科学と知性を大切に思う一人の人間として)、私は、「水からの伝言」の物語は、いかなる意味でも科学ではないことを断言する。そして、未熟な知性に誤解を与えかねないこのような本を、どんな形にせよ、教育の現場で用いることにつよく反対する。すでに「水からの伝言」を何らかの形で教育にもちこんでしまった先生方には、この物語をめぐる風景を、もう一度ゼロから(できるかぎり批判的に)考え直されるよう、心からお願いしたい。
さいごに、個人的な感想を述べれば、この物語はファンタジーとして見ても、決してすぐれたものだとは思えない。「水は答えを知っている」というタイトルにはっきりと現れている「わかりやすさ」は、人生の本当の知恵を与えてくれる「わかりやすさ」ではない。水に聞けば「答え」がわかるというのは、人がよりよく生きるために、悩み、感じ、考えることを放棄させる悪しき道徳だと思う。さらに、「人間の主成分は水」という即物的な事実にもとづいて人の心までをも特徴づけようという考え方には、なにか空恐ろしい不毛さを感じる。人の心というものが科学によって理解される日が来るにせよ来ないにせよ、それは、人間の脳(+肉体)の実に複雑で精妙なはたらきが生み出した驚異的な何物かであろう(あるいは、(私はそうは思わないが)もしかしたら「魂」というプラスアルファがいるのかもしれない)。それを水や元素といった「人間の成分」に還元してしまおうという考えは、人の心への冒涜であるとさえ感じられる。
付録
関連するリンクなどをまとめておきます。本文中で言及されているものも、あらためて載せておきます。
- 出版物での「水からの伝言」の批判
- 二村真由美「あなたは『水』に答えをもとめますか:疑似科学が蔓延する日本社会から見えるもの」、岩波「世界」2005 年 7 月号
- 「『水からの伝言』の仰天:ベストセラーの『トンデモ科学』度」週間アエラ 2005 年 12 月 5 日号 pp.34--35(この記事には、江本氏へのインタビューも掲載されている)
- 菊池誠さん(大阪大学、物理学)によるページ
- 天羽優子さん(山形大学、物理学)によるページ(「水商売ウォッチング」より)
- リンク集
*1:ただし、IHM がきわめて高価な波動関連の商品を販売していることを思えば、これをただの素朴な「おとぎ話」とみなすのは困難なのだが。
*2:この文章の「それ」は、正確には、直前の文の「地球上に住むどんな人にも適用でき、だれもが納得する、そしてこの世界をシンプルに説明することができる、たった一つの答え(p.12)」を指すが、基本的には、上の引用での「その一言」「シンプルで決定的な答え」と同じものであろう。
*3:このようなバイアスは、実験やデータ処理をする人にはサンプルの素性を教えないという盲検(ブラインド)という方法によって取り除くことができる。江本グループではブラインドを採用しているという記述が 194 ページにあるのだが、その後の江本氏のインタビュー(AERA 2005.12.5 p. 35)には「撮影者には、こういうことをした水だという情報を与えている。」とブラインドでないことが明記されている。
*4:ただし、シリコンの融点は 1414 度ととても高いが。
*5:量子力学の解釈をめぐって物理学者のあいだでも今でも色々な議論が続いているが、それはファンタジーの正当化とはまったく無縁な次元の話である。
*6:興味のある方は、菊地さんの「『ニセ科学』入門」を参照していただきたい。
*7:上にも挙げた 2005 年のインタビューで、江本氏は「水からの伝言はポエムだと思う。科学だとは思っていない。」としながらも、「科学で分かっていることはほんの数%。95%は分からない。今後、周りの研究者によって科学的に証明されていくと思う。」とも語っている。また「水は心の鏡だという。撮影者の意識が働いてきれいなものになるということはある。量子力学の世界ではそうなっているようだ。」とも述べているが、少なくとも、われわれの知っている量子力学の世界では「そうなっていない」ことを断言しておこう。
擬似科学と科学の哲学
- 作者: 伊勢田哲治
- 出版社/メーカー: 名古屋大学出版会
- 発売日: 2003/01/10
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話はそれてしまうが、当時の「黒木のなんでも掲示板」は web 上の議論と交流の場として実に理想的に機能していた。ハードなものは blog が主体で、掲示板はほとんどが低密度のチャットになってしまった(ように、ぼくには見える)今日の web の姿からすると、これは、ちょっと驚異的な状況だった。ぼく個人についていえば、『「知」の欺瞞』の翻訳と「熱力学:現代的な視点から」の執筆という、二つの(相当にヘビーな)仕事をする際、この掲示板で知り合った仲間たちに(単なる励ましとかではなく、本当に実質的で本質的な意味で)大いに助けてもらったのだ。ぼくの(今でも交流のつづいている)ネット上の知り合い(including 山形浩生さん(と有名人の知り合いであることをアピール))のほとんどは、この時期にこの掲示板で知り合った人たちだといっていい。このような優れた「知的サロン」が存在したのは、単なる偶然ではなく、主催者の黒木さん(東北大学数学)の明確な哲学と適切な努力によるものなのだが、それについて(また、この「サロン」がけっきょくは廃れてしまって、それに類するものは(ぼくの知るかぎり、野尻さんの掲示板を除けば)ほとんど見あたらなくなってしまったことについて)論じるのはまた今度にしよう(いつ??)。
ついでだから、話にあがった二つの本の宣伝をしておこうか。
- 作者: アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン,田崎晴明,大野克嗣,堀茂樹
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2000/05/24
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- 作者: 田崎晴明
- 出版社/メーカー: 培風館
- 発売日: 2000/04/01
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さて、本題の伊勢田さんの本だが、タイトルからわかるように、これはいわゆる「科学哲学」の本である。そういえば明らかだろうけれど、気軽に楽しみながら読める本というわけにはいかない。とはいえ、科学哲学の問題をプロが真剣に扱っていることを思えば、(適度の「ゆるみ」もあり)こなれた読みやすい本になっている。こういうテーマに多少なりとも関心のある人にはおすすめしたい。
「科学ってなに?」という問、もう少し正確に言えば「○○って科学なの?」という問にどうやって答えていけばいいのかについて議論した本といっていいだろう。この○○には、「ニュートン力学」とか「量子論」とか「進化論」とか、大きなものをいれてもいいし、「超伝導の BCS 理論」とか(激しく落ちるけど)「強磁性の起源についての Tasaki モデル」とか具体的な理論を入れてもいい。もちろん、こういう場合には「科学だよ」という答が返ってきてくれないと困る。逆に「占星術」とか「水に『ありがとう』という言葉を見せると美しい結晶をつくるというお話」とか「エネルギー源のいらないドクター××××エンジンの理論」なんてのについては、「科学じゃないよ」という答が返ってきてほしいわけだ。
こういう「線引き問題」というのは、お気楽に考えると簡単そうなのだが、まじめに考えれば考えるほど、実は、そう易々とは答がだせない問題だということがわかってくる。というより、答はもともとわかっている気がするんだけど、それを正当化するちゃんとした理屈や考えの筋道を整えるのが猛烈にむずかしい、ということなのかもしれない。
この本では、「線引き問題」が当たり前じゃないんだよということをなっとくさせた上で、じゃ、どう考えるかということについて、いくつかの立場やアイディアをていねいに紹介してくれる。
そのために、第1章では、「そもそも法則ってなんだろう?」とか「実験をして法則を知る・確かめるってどういうことだろう?」みたいな(科学哲学の)基本的なところに戻って、標準的ないくつかの考え方をきちんと整理してくれる。これは、ありがたい。法則や実験の意味について自分なりに考えたことのある人なら、おなじみの考え方や、それらに対する当然予期される「つっこみ」に、それぞれ名前がついているんだなということがわかると思う。あるいは、ちょっと予想していなかった賢い(あるいは陰険すぎる)「つっこみ」があるんだということを発見するかも知れない。こういったテーマについて今までぜんぜん考えたことのなかった人は・・・、うううん、そうだなあ、そういう人がいたら、まあ、この本を読む前に少し自分で考えてみたらいいと思うなあ。あるいは、1章を少し読んだところで、本をとじて自分なりにいろいろ考えるのがいいと思う。その上で、自分の考えと照らし合わせながら、相当に時間をかけて1章を読むべきだろうなあ。そうでないと、そこから先の話しは(本当の意味では)おもしろくないだろうから。
2章以降は、線引き問題についてのよりつっこんだ話になっていく。この本のナイスなところ(の一つ)は、単に線引き問題についてのアプローチを抽象的に述べるんじゃなくて、具体的で、しかも「話として聞くだけでも面白い」例をわりとていねいに説明して、それをネタにしながら、線引き問題へのアプローチの仕方を説明していることだ。創造科学とか占星術についてもかなり詳しい記述があって、こういうのを読んでいるだけでも楽しい(ただし、網羅的な知識を伝えようとしているわけじゃないので、「擬似科学博士」になりたいと思って読む本じゃないよ。また、アチラの世界も日進月歩なようで、創造科学は、今では intelligent design という新たな姿をとって大いに力をもちつつあるらしい(これは、まじで冗談じゃすまされないのだけど)。こういう話しは新しすぎて伊勢田さんの本にはのっていない)。ただ、具体的な話に引き込まれすぎると、そもそも何を問題にして議論をしていたのだか忘れてしまうことがあるので、そこは注意。ときどき論点を思い出しながら、楽しく読むのがいいだろう。
この本が最終的に行き着くのは、「○○は科学か?」という問に対して「白黒をつける」のではなく、ベイズ的な観点から「段階的に白から黒に塗り分ける」という立場である。これは、科学をめぐる風景を外からながめたときの描写としては、きわめて穏健でかつ実際に近いものだと思う(ベイズについての説明は、知らない人には、厳しいでしょうね。でも、書いてあることは信頼できるので、正しい意味での空気はわかると思う)。
念のため言っておくけれど、もちろん、「科学が科学たる所以(ゆえん)」がベイズ的な推定にあるという結論じゃないよ。そんなことは伊勢田さんは一言も言ってないと思う(そもそも「科学が科学たる所以(ゆえん)」なんていう無茶なことには、伊勢田さんは触れていない)。ぼくも科学者の一人として、「科学が科学たる所以(ゆえん)」について漠と感じたり信じたりしていることはあるのだけれど、それは、また、別のモードで考えるべきテーマだろうと思う。とはいえ、物理学者としてひとつだけ強調しておきたいのは、自然科学というのは、非常に多くの、ものの見方や、考え方や、体系や、理論や、実験事実が、互いに整合した巨大で包括的な全体を形作るようにしてできあがっているということだ。自然科学のすごさというのは、個々の体系や理論が信頼できるということだけじゃなくて、この大きな大きな全体が互いに本質的に助け合うようにして支え合っているからでもあるのだ(伊勢田さんも、もちろん、そういうことは理解されているのだが、この本では、あまり強調されていない。それを強調しすぎると、社会科学をおきざりにすることになるからかも)。このあたりについて、もっときちんと書いてみたい気もするし、このままじゃ中途半端だけど、ま、そこは許してください(随分むかしに書いた「普遍性と科学」という文章をご参照ください)。
科学に興味をもっている人、科学の教育を受けた人、あるいは、科学の研究・教育に携わっている人たちの、意外に多くが、「科学ってなに?」とか「○○は科学か?」的な問に無頓着(むとんじゃく)だということが、昔から気にかかっていた。極端な話、「学校で教わったから科学」、「教科書に書いてあるから科学」、「テレビの科学番組で紹介していたから科学」というレベルの人も(残念ながら、少なからず)いるみたいだし、科学者の中にも「『科学の方法』に従っていれば科学」と言ってしまっているような人も(残念ながら、少なからず)います(これがどうしてまずいかは、伊勢田さんの本を読んでね。あと、少し上の世代でちょっと科学哲学をかじったらしき人たちは未だに「科学とは反証可能性を満たすものだ」と堂々と言い放っていますね。これが不十分だということは、伊勢田さんの本のようなものを読まなくても、科学の具体例について真摯に考えてみれば明らかだと思うんだけどなあ・・)。こういうのは、(失礼ながら申し上げれば)明らかに考えが足りないと思うのだけれど、だからといって、科学の具体的な内容を学んだりそれについて考えたりする弊害にはならないだろうし、科学の研究を進めていく上での妨げにも(ほとんどの場合)ならないみたいだ。でもですねえ、こういうところが足りないというのは、やっぱり科学に立ち向かう態度として、「脆い(もろい)」とぼくは思うのだ。科学ってのは、よくも悪くも、そんなシンプルでうすっぺらなものじゃないんだから。普段は大したことはないだろうけれど、何か、今までと極端にちがう局面に出会ったとき、ポキッと「折れて」しまうんじゃないだろうかと心配になるのだ。その「ちがう局面」について語り出すときりがないけれど、たとえば極端な例として、理系エリートがオーム真理教と出会ったとき何がおきたか、みたいなことを考えてほしい(あるいは、(具体例を知っているわけではないけど)相対主義的反科学論に出会って「目から鱗が落ちて」しまった理科の先生とかも想像できてしまう)。
そして、そういう風に「脆く」うすっぺらな態度で科学に接することによって、結局のところ、科学の本当のすばらしさを見過ごしてしまうことになるとぼくは思うのだ。オーム真理教にひっかかるかひっかからないかの問題だけでなく、科学の真のすごみを知るためにも、「脆い」態度は脱皮してほしいわけだ。というわけで、久々に時間のできた日曜日、この本を朝に読了したあと、昼ご飯前に一気に書いてしまったこの(けっこう長い)読書感想文で言いたかったことは、科学のすばらしさを知るためにも、伊勢田さんの本なんかを読んで、「科学ってなに?」というようなところを少し真面目に考えてみようよということに尽きるのでした。
物理学者ランダウ
- 作者: 佐々木力,山本義隆,桑野隆
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2004/12/09
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ソ連の科学界でトップの地位をずっと保っていたと(なんとなく)思われていたランダウだったが、実は、若い頃にトロツキイストであるとの嫌疑をかけられ、一年のあいだ、獄中で過ごしていたという。その事実や当時の資料が、最近になって公開されたために、そのあたりの事情がはっきりしてきたらしい。
この本は、ランダウの逮捕劇、(奇跡としかいいようがないらしい)救出の経緯、その後のランダウの(隠されていた)政治とのかかわりなどについて、新たに日の目をみた資料を中心にしてまとめたもの。ただし、それだけでは本として面白くないし分量も足りなかったのだろうと思うが、編者の一人による長い「総論解説」と、様々な人の手になるランダウの伝記的な文章がいくつか収録されている。
以下は、とりとめのない感想。(実は、個人的には、編者の一人の山本義隆氏によるあとがきにもっとも心を動かされたのだが、それはまた別の話だと思うので、ここには書かない。)
政治にかかわる部分
これがメインのはずなのだが、正直なところ、それほど楽しく読めるものではない。政治のところはとばして他を読んだと言っている友人がいたが、それも正解だと思う。けっきょくのところ、ランダウの逮捕劇がなんだったのか、ぼくには、わからなかった。編者は、ランダウは単に冤罪で逮捕されたのではなく、しっかりと反体制の考えをもっていた(だから、偉い)と言いたいようだ。本当にそうなのかな、とぼくなどは疑問に思う。
ランダウを獄中から救い出すためにカピーツァがレーニンに宛てて書いた手紙というのが収録されている。それを読むと、要するに、ランダウは、もう物理ばっかりやっている奴だし、物理で大成功をおさめていて他のことでの野心なんかを持つ暇もないだろうし、わざわざ反体制活動に加わったりはしないと思うよ、と書いてある。さらに、ランダウは、やたら優秀なかわりに、猛烈に嫌な奴であり、できない奴を平気でバカにするから、人から恨みを買いやすいんだと思うともある。(で、出獄したら、俺がちゃんと態度をなおさせるからとも書いてある。偉いぞ、カピーツァ。)ぼくらの持っているランダウのイメージからすると、この、「恨みを買ったための冤罪」説がとてももっともらしくみえるのだけどなあ。
本の中には、ランダウが文案を練る手伝いをしたとされる反体制のビラの下書きというのがあり、私が関わりましたというランダウの自白調書もある。でも、これが本物かどうかなんて、ぼくらが見てもわからないではないか。
さらに、釈放されたあとのランダウが、たびたび体制をけなすような発言を身近な人にしていたことも記録されている。そういうのを見て、編者は、あっぱれランダウ、理性的に体制を批判している、と褒め称えるのだが、これも、どんなものだろう? 若くて仕事がばりばりできる頃に一年間も牢屋に入れられれば、誰だって体制の悪口も言いたくなるのではないのか?
この部分には、ランダウやカピーツァがソ連の核兵器開発にいかに関わったかという話も登場する。これは(山本氏のあとがきとも関連するが)深く重いテーマなので、今は、あえて取り上げない。
伝記的な部分
ランダウのまとまった伝記を読んだことがなかったので、楽しく読めた。この部分が一番おもしろかった(←それだけかえ)。
総論解説について
本書の冒頭には、佐々木力氏による70ページを越す「総論解説」というのがついている。今回新たに執筆された「渾身の書き下ろし」というやつで、普通なら、本書の目玉ということになるのだろう。しかし、正直なところ、この解説はまったくいただけないのだ。はっきり言えば、無駄に長いし、無駄に盛り上げている。
一読して思うことは、佐々木氏は別にランダウのことをよく知っているわけではないとうことだ。この本を書くために、いろいろとネタを集めてまわった感じが漂っている。そして、けっきょくのところ、佐々木氏にとってのランダウというのは、「トロツキイストの烙印を押されつつも、ソ連の体制に対して理性的な反抗をおこなった英雄」ということにつきるのだと思う。そういう理由で、偉いやっちゃと感心し、共感しているようにみえる。しかし、上でも書いたように、ランダウがどこまで真面目に反体制をやっていたのかは、本当ははっきりしないことだと思うのだ。そういう意味で、ご自分の政治的趣味をランダウに投影して、かなり一面的な英雄像を描こうとした、かなり偏った「解説」だという感想をもった。
さらに、そういう全体を貫く空気以外にも、「いろいろと集めてまわった」ネタにもなにやら問題があるということを、割とつよく思った。佐々木氏は科学史・科学哲学がご専門だそうだ。そうであれば、歴史的事実については、一次資料にもとづいた、できる限り客観的な分析・解釈をみせていただけるものと思ったのだが、どうもそうではないような感じがする。ぼくのような歴史の素人からみても、なにやらいい加減な話の進め方をしているぞと思われるところが、ちょくちょくあるのだ。
本格的なソ連の歴史なんかのところは、怖くて手がでないので、もっと身近なところで、適当に二つほど例をあげよう(これをずっとやっていると、きりがないし)。
この会議*1が組織されたのは、ほとんど疑いなく、日本で最初にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹を顕彰してのことであろう(p7, 強調は引用者による)。
というのだが、「ほとんど疑いなく」とか「であろう」とか言って文字を費やす暇があったら、なぜそうなのか資料や根拠を挙げるべきだと思う。ぼくは歴史に疎いのであてにはならないが、この会議を湯川のために開いたという話は聞いたことがない。どこかにそんな記録があるのか?
次の例は、もっと身近。
東京大学教養学部のロシア語の1950年代末の授業には、理科系進学志望の学生がたくさん出席していたという。これには、[中略] ヴラジミール・イヴァーノヴィチ・スミルノフの「高等数学教程」や、ランダウの「理論物理学教程」の原典を読むことも理由のひとつであったのもまた疑いないであろう(p9-10, 強調は引用者)。
「していたという」って、佐々木氏の勤務先の話でしょう。ぼくの物理学科のクラスメートにもロシア語をおもしろがって取っている奴はいたよ。1950年代末に特に理系の学生がロシア語をとる傾向があったかどうか、完全な検証はむずかしいにせよ、せめて資料でも出さなくては説得力も何もない。どうみても、友達に聞いた程度の話を無理にふくらませている風にしか読めない。何歩か譲って、本当にこの時期にロシア語をとった理系の学生がとくに多かったのだとして、ランダウやスミルノフの原書の話に本当に結ぶつくのかいな。それにしても、「ひとつであったのもまた疑いないであろう」って、根性なさ過ぎ・・・
ところが、この根性のない文章のすぐ次に来るのは、
戦後日本の科学界にソ連科学の影響が強い時期がたしかに存在し、その代表者として「ソヴィエト科学の誇り」のランダウがいたことは間違いないことなのである。
という、でかい結論。ロシア語履修者についての聞きかじりをもとに、ここまで堂々とした結論を引っ張られると、気が抜けてしまう。一カ所で、ここまでの牽強付会をやっている人だから、政治とか歴史とかの専門的なところでも、ぼくら素人に気付かれないように牽強付会をやりまくっているのではないかという警戒がつよまる。つよまりません?
牽強付会といえば、この長い「総論」もクライマックスに近づいた p59 で、唐突に、
という一文が現れる。
え? なんで急にモーツァルト?? 誰が、どこで「しばしば」言ってるの???
例によって、出典なしの宣言。しかし、たとえ誰かがそう言ったにせよ、この比喩は相当に的をはずしていると思うよ。たしかに、どちらも天才だけど、共通点ってそれくらいでは? モーツァルトのもっている天才的な明るさ・軽さみたいなのはランダウには皆無だろうし、逆に、「教程」の出版に代表されるランダウの体系化への執念はモーツァルトとは無縁に思える。歴史の中の位置づけを考えても、バッハ、モーツァルト、ベートーベンらは音楽の形を創っていった人たちだから、やっぱりランダウとはちがう。ランダウには、どちらかというと、ロマン派の成熟期に活躍した天才作曲家の誰かがしっくり来そう。お好きな方は考えてみてください。いずれにせよ、ランダウは音楽が嫌いだったらしいから、モーツァルトだろうが、ブラームスだろうが、どうでもよかったろうと思う。
でも、佐々木氏はどうでもいいと思わなかったようで、p61 を、まる1ページ使って(ランダウとはまったく無関係な)モーツァルトについてのエピソードを紹介する。で、最後のページは、ランダウと、モーツァルトと、「もう一人のレフ・ダヴィドヴィチ(トロツキイのこと)」をいっしょくたに褒め称える佐々木節が全開となる。
こういうのがお好きな方もいらっしゃるのかもしれないが、少なくともぼくは、あまりのわざとらしさとこじつけぶりに唖然とするしかなかった。関係のない話でも強引にご自分の土俵にもちこんで、堂々たる熱弁をふるってページを埋めるというのが、果たして、この方の定番のスタイルなのだろうか? 単なる(成功しなかった)余技だと考えるのが大人なんだろうなあ。
自閉っ子、こういう風にできてます!
- 作者: ニキリンコ,藤家寛子
- 出版社/メーカー: 花風社
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まず妻が買ってきて読み、「ヘタなエスエフよりずっとすごい」と衝撃を受け、つづいて娘も読んで感動し、最後に、ぼくが読んでぶっとんで、という具合に家族で楽しんだ。
とにかく面白い本だ。『自閉の人たちのことをもっと理解して、あらゆる意味でバリアフリーの社会を目指そう』と大上段にふりかぶらず、ぼくらとは、微妙に異なった角度から同じ世界に接している人たちの話を楽しく聞く、という気持ちで読めるのがいい。実際、この「微妙に異なった」というところが大事で、本当に大きく異なっていたら、こういった会話とかは成立しないわけだから。それに、けっこう大変な話もあるけれど、悲愴にならずに読めるところが登場する皆さんのキャラクターの持ち味なんだなあとも思う。(もちろん、そうやって「楽しく聞く」ことが、よりよい社会の実現に少しずつでも役に立つと思う。あと、いわずもながだけど、これを読んで自閉の人たち一般のことがわかった、とか思うのは禁物でしょうね。)
本の中では、リンコさんたちの「微妙に異なった」世界への接し方から生まれるいろいろなエピソードが語られる。それを、ここで紹介していくつもりはないけれど、ぼく個人としては、「ニキリンコは架空キャラだ」とネットに書かれたらそれをご本人が信じてしまった、というエピソードにはぶちのめされてしまった。それは、さぞかしすごい体験だったろうなあと、想像できないものを敢えて想像してしまう。
ぼく自身は、平凡な「定型発達」組なのだが、それでも、本の中のエピソードで、「あ、ぼくも、そうだった」と思うのがいくつかある。
小学校くらいの頃のぼくには、クラスメートや先生が、それぞれの役を演じている役者たちだというのが直感的には自然な解釈だった。頭ではそうじゃないとわかっていても、感覚的には、そう思え、ごくまれに、本当はパパやママも含めて、みんながぼくをだまして演技をしてるんじゃないだろうかという可能性を真剣に検討したものだ(もちろん、家族のことは好きだったから、こういうのは「こわい考え」。)。小学校低学年の頃、学校で担任の先生にむかって「ママ」と呼びかけそうになったあとも、実は、ママと先生は同じ役者さんが演じており、ぼくはそれを直感的に見抜いて呼び間違えたのかも、などと勝手に考えたりしていた。あと、クラスメートは、明らかに、限られた数の俳優がやっているとしか思えなかったなあ。だって、クラス替えがあると、同じ俳優の奴が、別の名前と少し変化した顔で登場してくるから。あ、あいつは馬場と同じ奴がやってるんだ、とか感じていた。面白かったのは、小学校四年でアメリカの学校に通ったときも、やっぱり同じ俳優たちが出演しているなあと思ったこと。田中をやっていた奴が、外人の顔になって、ガスとかいう名前で出演していたぞ。
というような話を家族にしたら、そういう感覚を持ったことはあまりないと言われてしまった。多くの人がそうだったんだろうと、割と最近まで思っていたのだった。
あと、この本を読んでいると、三人とも、言葉をとても大事にする人たちだというのが伝わってくるのがうれしい。冒頭の浅見さんの文章もお上手だし。朝日新聞にのったこの本の紹介の中で、エピソードの一つを「コタツに入ると脚の感覚がなくなる」と紹介している。よく読んでほしいなあ。原文は、「脚がなくなる」なのだ。実感はなかなかわかないが、「コタツに入ると脚がなくなる」という単純な表現に、身体感覚などなどの面白い問題がみごとに縮約されている。本の紹介をした人は「脚がなくなる」ではわかりにくいからと、わざわざ「感覚がなくなる」という凡庸な表現にしたのかもね。もしそうだったら、それによって、原文の鋭さを激しく損なうとともに、圧倒的に面白みのない誤解を誘ってしまったことになるのだなあ。 (リンコさんによれば、やはり「感覚はある」のだそうです。)
ベイズ統計と統計物理
- 作者: 伊庭幸人
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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先日、池袋の大きな本屋さんに行ったときに、
伊庭幸人著『ベイズ統計と統計物理』(岩波講座「物理の世界」)
を買ってきて、その日のうちに、ざっと読んでしまいました。
そうです。 かの有名な「物理の百円均一ショップ(Hal Tasaki's log W 3/2/2003)」の中の一冊であります。
しっかあし、百均ショップに置いてあるからといって、それだけで、安かろう(←安くないし)悪かろう、made in japan だ(←昔の意味で)、と決めつけることは、ない。
何を隠そう、講座の構成を聞いたときから、この一冊は秘かに愉しみにしていたのである。 よって、けっこう期待しつつ、真面目に読んでみたわけです。
以下、読後感を、だらだらとまとめてみました(←「だらだらと、まとめる」って矛盾してるね)。
さて、著者の伊庭さんとぼくとは、大学院時代から互いに知っている、旧知の間柄である。
彼を一言で表現するのはむずかしいが、今の日本ではきわめて珍しいタイプの研究者であることは確実だ。 いつだったか、学会で、彼の話が終わったあとの立ち話で、「伊庭さんの講演に出てきた○○とは何か?」と質問したところ、即座に、「それを知らないのは知的怠慢である」との答えが返ってきたことがある。 (○○が何だったか、思い出せない。 今は知っていることだと願いたい。) はっきり言って、「知的怠慢」呼ばわりされたことって、ほとんどないわけで、こういう人は貴重だ。 日本人で(少なくとも、ぼくに対して)これくらいはっきりと物を言ってくれる人は、あとは佐々さんくらいしか思いつかない。 希有の人材である。
旧知の間とはいっても、この本を読むまで、彼の書いた物をまとめて読んだことはなかった。 そう言えば、いつだったか、仲間内の何かの会があって新宿のレストランで皆でお食事・歓談をしていたとき、隣に座っていた伊庭さんが、やおら書きかけの博士論文の草稿を取り出し、修正作業を始めたことがあった。 そのとき、「その博士論文ができたら読ませろ」と頼んだのだけど、けっきょく、もらえなかった気がする。
というわけで、以上の導入部で伊庭さんという人について一定のイメージをつくったところで、この本について。
一言で、ズバリというと、とてもよく書けています。
なんといっても、何を書きたいか、ということがはっきりしていて、何か(単に知識だけではない何かも含めてね)を伝えたいという著者の意気込みが生き生きと伝わってくる。 そして、すばらしいことに、文章がとてもうまい。
特にいいのが前書き。 せめてここだけでも本屋で立ち読みしてほしいものだ。 と書いたけど、著者のサポートページに、序文草稿というのが、ありました。 ま、座って読んで下さい。
どうです?
著者が何かを伝えたがっていること、そして、そのために、一生懸命に工夫をして知恵を使ってこの本を書いたということが、生き生きと伝わって来るではありませんか。 こういう風に、科学としてもしっかりとオリジナルな芯があり、しかも、それをノリのいい文章で伝えられる人というのは、本当に希有の存在ではないでしょうか。 あと、思いつくのは・・・、ほれ、あの人とかあの人とかあの人くらいじゃないかな、って、伊庭さんも含めてけっこう同世代が多いな。
さてと、実際、中身を読んでみると、前書きで宣伝しているだけあって、遺伝子の推定の問題や、氷のモデルの話など、具体例も面白く書けている。 とくに ice model の導入と説明での伊庭さんの筆のさえには、うならされた。 修士論文のテーマであり、氷の分子模型を冷蔵庫で冷やすほどに入れ込んでいた題材なのだから、知識が豊富なのは当然とはいえ、現実の系(=そこらへんにある氷)と理想化されたモデルの結びつきを語るバランス感覚には絶妙のものがあると思う。 今後、統計力学の本を書く人は、伊庭氏の ice model の記述を読み返し、自分はどこまでうまくやっているかを自問すべし。 はい、ぼくも、やります。
で、本題である、統計的推測と統計力学の関連、ということについても、きわめて明晰に書かれていて、ぼくとしては、正直にいって、新たに学ぶところが多かった。 すべてがクリアーに進む遺伝子の例をひな形にして出発し、そこから、事前分布の選択という悪夢の登場する一般の場合へと徐々に進んでいく構成も、うまい。
シリーズそのものを一貫して批判している私ですが、個別の本として、この伊庭さんの著書は人にすすめることができます。
と、ひたすらほめてきましたが、もちろん、私が田崎晴明である以上は、ほめるだけで終わりはしませぬ。
不満点も、いっぱい、あります。 (←読点が多いのは、別に、綿矢りさの、影響ではなく、もともとのスタイルです。)
まず、本の書き方としてのやや技術的なことかもしれないけど、やっぱり、全般的に説明が足りないと思う。 初心者も気楽に読めるように数式を減らした、というけれど、あまり減らしてしまうと、逆にわからなくなってしまう。
とくに、遺伝子の推定にベイズの公式を使うところは、この本を読む人すべてに理解してもらいたい要だと思うのだけれど、このさらっとした説明で本当に初心者にわかるのかな? ぼくの経験によれば、物理の人たち(学生さんだけではなく、プロも)の確率論の理解はきわめて低い。 条件付き確率を p(x|y) とします、とか急に言われると、そこでとまどってしまって、けっきょくベイズの公式が自明の理だということを体得し損なう読者が多いんじゃないかと危惧する。 そこに神秘感を抱いたまま読み進むと、遺伝子の推測の場合、事前分布の選択を含めて、すべてが理想的に(かつ、論理的な曇りなしに)進んでいるということを把握できないだろうし、逆に、あとで事前分布をめぐる煩悩にもだえ苦しむあたりの切実さも看過されてしまいそうだ。
要するに、紙幅に余裕があれば、ここに「確率論入門」が入ってくるべきなのだ。 (やっぱり、小冊子という企画には無理があるのだよ。)
他にも、「もうちょっと詳しい一言」がほしいところは散見する。 この倍の分量にしろとは言わない。重い本になってしまうだろうから。 でも、せめて、1.5倍くらいはほしいと思いませんか? そのあたりが、本当に真面目にこのレベルの内容の科学を伝えられる限界みたいな気がする。
内容に踏み込んだ不満も、あります。もちろん。
統計力学が、(基本的には)マクロな大自由度系のみを対象とする(そのため、大自由度性を積極的に利用する)体系である、という視点がみられない、というのが --- ま、お約束かも知れないけど --- ひとつの不満。 とはいえ、伊庭さんは、統計的推測と統計力学には似ているところもあれば、似ていないところもある、ということを明言しているわけで、別に似ていないところのすべてを列挙する必要があるわけじゃない。 このあたりは、エルゴード性の破れとか、考え始めると深みにはまるところなので、敢えて沈黙を守っていると解釈すべきだろう。
さらに内容に踏み込んでいくと、4.7 節の「統計物理はなぜ事前分布を必要としないか」に書いてることには全く不満です。 というより、ここに書いてあることは、まちがっていると思う。 (等重率の原理と、条件付き確率による推定における事前分布とを、どう対応させるか、という話は置いておく。) 古典論に等重率の原理を適用しようとして出会った困難(固体の比熱の低温での挙動とか、黒体輻射のエネルギーの発散とか)が、量子論の採用で救われた、というのは事実。 しかし、これは等重率の原理の正当性について本質的な問題とは無関係の話。 単に、自然のモデル化が大きく間違っていたのが修正された、ということに過ぎない。 量子論になっても、量子論の設定で、等重率の原理をアプリオリに仮定する必要がある。 その仮定はどうしても必要で、量子論になったからといって、ものごとがわかりやすくなるわけじゃないと思う。
ええと、長くなったので、そろそろ終わりにしよう。
前書きの最後の方で、伊庭さんは、
著者は,はじめて学ばれる方にとっては,初夏の午後の街路のように平穏に歩け,専門家にとっては,足下の影に目を落とせば忽ち迷宮に迷うような本が書きたかった.
と書かれている。 すてきな、そして、大胆な、目標だと思う。 こうやって、高い目標を掲げ、公言し、そして自分を追い込んで、いい仕事をする、という態度は好きです。
さらに、足下にさりげなく用意された、たくさんの「影」。 実際、この本の中には、たくさんの「罠」が仕組まれていて、専門家が落っこちるのを待っているのかも知れない。 ただ、ぼくのように、統計力学の方面のみに突出した「偏った専門家」にとっての最大の罠は、伊庭さんの用意した迷宮に迷って愉しむことではなく、数理統計学という学問の現状についての彼の余りに明快な説明に心から納得してしまうことかもしれないぞ、という気がしています。 「あ、数理統計。つまり、あの事前分布の呪縛から逃走しようとして、アドホックにあれする奴ね」みたいな浅薄な(そして、物理帝国主義丸出しの)しったかぶりに陥ってしまうことのないよう、自らを戒めなくてはと思う今日この頃です。
だれが原子をみたか
- 作者: 江沢洋
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1976/06/17
- メディア: 単行本
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「なぜ科学者は目に見えない『原子』を扱うのか?」という一見素朴なようで実は深い問いに、江沢洋がじっくりと答えた「だれが原子をみたか」がようやく復刊された。
江沢洋という名前からは、書斎の理論家の姿を思い浮かべる読者も多いだろう。しかし、この本での彼は、自ら顕微鏡を覗いてスケッチをし、渓谷に赴いて水の柱の上にトリチェリの真空を作り出す実験家でもある。もちろん、歴史を生き生きと語り、また、自らの目で見て手で触った現象と、論理・数式との結びつきを明晰に解き明かしてくれるお馴染みの江沢節も堪能できる。
教育者、専門家も含めて、科学に関心を持っているすべての方が手にする価値のある一冊だと信じている。
数学セミナー vol. 38 no. 4 (1999年4月号)