自閉っ子、こういう風にできてます!

hal_tasaki2005-02-13

自閉っ子、こういう風にできてます!

自閉っ子、こういう風にできてます!

作者(座談者)の一人のニキリンコさんと、いくつかの掲示板などでごいっしょしたのがきっかけで読んだ本。後から知ったけれど、しばらく前に話題を呼んだ「片づけられない女たち」という本もリンコさんの翻訳であった。

まず妻が買ってきて読み、「ヘタなエスエフよりずっとすごい」と衝撃を受け、つづいて娘も読んで感動し、最後に、ぼくが読んでぶっとんで、という具合に家族で楽しんだ。

とにかく面白い本だ。『自閉の人たちのことをもっと理解して、あらゆる意味でバリアフリーの社会を目指そう』と大上段にふりかぶらず、ぼくらとは、微妙に異なった角度から同じ世界に接している人たちの話を楽しく聞く、という気持ちで読めるのがいい。実際、この「微妙に異なった」というところが大事で、本当に大きく異なっていたら、こういった会話とかは成立しないわけだから。それに、けっこう大変な話もあるけれど、悲愴にならずに読めるところが登場する皆さんのキャラクターの持ち味なんだなあとも思う。(もちろん、そうやって「楽しく聞く」ことが、よりよい社会の実現に少しずつでも役に立つと思う。あと、いわずもながだけど、これを読んで自閉の人たち一般のことがわかった、とか思うのは禁物でしょうね。)

本の中では、リンコさんたちの「微妙に異なった」世界への接し方から生まれるいろいろなエピソードが語られる。それを、ここで紹介していくつもりはないけれど、ぼく個人としては、「ニキリンコは架空キャラだ」とネットに書かれたらそれをご本人が信じてしまった、というエピソードにはぶちのめされてしまった。それは、さぞかしすごい体験だったろうなあと、想像できないものを敢えて想像してしまう。

ぼく自身は、平凡な「定型発達」組なのだが、それでも、本の中のエピソードで、「あ、ぼくも、そうだった」と思うのがいくつかある。

小学校くらいの頃のぼくには、クラスメートや先生が、それぞれの役を演じている役者たちだというのが直感的には自然な解釈だった。頭ではそうじゃないとわかっていても、感覚的には、そう思え、ごくまれに、本当はパパやママも含めて、みんながぼくをだまして演技をしてるんじゃないだろうかという可能性を真剣に検討したものだ(もちろん、家族のことは好きだったから、こういうのは「こわい考え」。)。小学校低学年の頃、学校で担任の先生にむかって「ママ」と呼びかけそうになったあとも、実は、ママと先生は同じ役者さんが演じており、ぼくはそれを直感的に見抜いて呼び間違えたのかも、などと勝手に考えたりしていた。あと、クラスメートは、明らかに、限られた数の俳優がやっているとしか思えなかったなあ。だって、クラス替えがあると、同じ俳優の奴が、別の名前と少し変化した顔で登場してくるから。あ、あいつは馬場と同じ奴がやってるんだ、とか感じていた。面白かったのは、小学校四年でアメリカの学校に通ったときも、やっぱり同じ俳優たちが出演しているなあと思ったこと。田中をやっていた奴が、外人の顔になって、ガスとかいう名前で出演していたぞ。

というような話を家族にしたら、そういう感覚を持ったことはあまりないと言われてしまった。多くの人がそうだったんだろうと、割と最近まで思っていたのだった。

あと、この本を読んでいると、三人とも、言葉をとても大事にする人たちだというのが伝わってくるのがうれしい。冒頭の浅見さんの文章もお上手だし。朝日新聞にのったこの本の紹介の中で、エピソードの一つを「コタツに入ると脚の感覚がなくなる」と紹介している。よく読んでほしいなあ。原文は、「脚がなくなる」なのだ。実感はなかなかわかないが、「コタツに入ると脚がなくなる」という単純な表現に、身体感覚などなどの面白い問題がみごとに縮約されている。本の紹介をした人は「脚がなくなる」ではわかりにくいからと、わざわざ「感覚がなくなる」という凡庸な表現にしたのかもね。もしそうだったら、それによって、原文の鋭さを激しく損なうとともに、圧倒的に面白みのない誤解を誘ってしまったことになるのだなあ。 (リンコさんによれば、やはり「感覚はある」のだそうです。)