ベイズ統計と統計物理

岩波講座 物理の世界 物理と情報〈3〉ベイズ統計と統計物理

岩波講座 物理の世界 物理と情報〈3〉ベイズ統計と統計物理

先日、池袋の大きな本屋さんに行ったときに、

伊庭幸人著『ベイズ統計と統計物理』(岩波講座「物理の世界」)

を買ってきて、その日のうちに、ざっと読んでしまいました。

そうです。 かの有名な「物理の百円均一ショップ(Hal Tasaki's log W 3/2/2003)」の中の一冊であります。

しっかあし、百均ショップに置いてあるからといって、それだけで、安かろう(←安くないし)悪かろう、made in japan だ(←昔の意味で)、と決めつけることは、ない。

何を隠そう、講座の構成を聞いたときから、この一冊は秘かに愉しみにしていたのである。 よって、けっこう期待しつつ、真面目に読んでみたわけです。

以下、読後感を、だらだらとまとめてみました(←「だらだらと、まとめる」って矛盾してるね)


さて、著者の伊庭さんとぼくとは、大学院時代から互いに知っている、旧知の間柄である。

彼を一言で表現するのはむずかしいが、今の日本ではきわめて珍しいタイプの研究者であることは確実だ。 いつだったか、学会で、彼の話が終わったあとの立ち話で、「伊庭さんの講演に出てきた○○とは何か?」と質問したところ、即座に、「それを知らないのは知的怠慢である」との答えが返ってきたことがある。 (○○が何だったか、思い出せない。 今は知っていることだと願いたい。) はっきり言って、「知的怠慢」呼ばわりされたことって、ほとんどないわけで、こういう人は貴重だ。 日本人で(少なくとも、ぼくに対して)これくらいはっきりと物を言ってくれる人は、あとは佐々さんくらいしか思いつかない。 希有の人材である。

旧知の間とはいっても、この本を読むまで、彼の書いた物をまとめて読んだことはなかった。 そう言えば、いつだったか、仲間内の何かの会があって新宿のレストランで皆でお食事・歓談をしていたとき、隣に座っていた伊庭さんが、やおら書きかけの博士論文の草稿を取り出し、修正作業を始めたことがあった。 そのとき、「その博士論文ができたら読ませろ」と頼んだのだけど、けっきょく、もらえなかった気がする。


というわけで、以上の導入部で伊庭さんという人について一定のイメージをつくったところで、この本について。

一言で、ズバリというと、とてもよく書けています。

なんといっても、何を書きたいか、ということがはっきりしていて、何か(単に知識だけではない何かも含めてね)を伝えたいという著者の意気込みが生き生きと伝わってくる。 そして、すばらしいことに、文章がとてもうまい。

特にいいのが前書き。 せめてここだけでも本屋で立ち読みしてほしいものだ。 と書いたけど、著者のサポートページに、序文草稿というのが、ありました。 ま、座って読んで下さい。


どうです?

著者が何かを伝えたがっていること、そして、そのために、一生懸命に工夫をして知恵を使ってこの本を書いたということが、生き生きと伝わって来るではありませんか。 こういう風に、科学としてもしっかりとオリジナルな芯があり、しかも、それをノリのいい文章で伝えられる人というのは、本当に希有の存在ではないでしょうか。 あと、思いつくのは・・・、ほれ、あの人とかあの人とかあの人くらいじゃないかな、って、伊庭さんも含めてけっこう同世代が多いな。

さてと、実際、中身を読んでみると、前書きで宣伝しているだけあって、遺伝子の推定の問題や、氷のモデルの話など、具体例も面白く書けている。 とくに ice model の導入と説明での伊庭さんの筆のさえには、うならされた。 修士論文のテーマであり、氷の分子模型を冷蔵庫で冷やすほどに入れ込んでいた題材なのだから、知識が豊富なのは当然とはいえ、現実の系(=そこらへんにある氷)と理想化されたモデルの結びつきを語るバランス感覚には絶妙のものがあると思う。 今後、統計力学の本を書く人は、伊庭氏の ice model の記述を読み返し、自分はどこまでうまくやっているかを自問すべし。 はい、ぼくも、やります。

で、本題である、統計的推測と統計力学の関連、ということについても、きわめて明晰に書かれていて、ぼくとしては、正直にいって、新たに学ぶところが多かった。 すべてがクリアーに進む遺伝子の例をひな形にして出発し、そこから、事前分布の選択という悪夢の登場する一般の場合へと徐々に進んでいく構成も、うまい。

シリーズそのものを一貫して批判している私ですが、個別の本として、この伊庭さんの著書は人にすすめることができます。


と、ひたすらほめてきましたが、もちろん、私が田崎晴明である以上は、ほめるだけで終わりはしませぬ。

不満点も、いっぱい、あります。 (←読点が多いのは、別に、綿矢りさの、影響ではなく、もともとのスタイルです。)


まず、本の書き方としてのやや技術的なことかもしれないけど、やっぱり、全般的に説明が足りないと思う。 初心者も気楽に読めるように数式を減らした、というけれど、あまり減らしてしまうと、逆にわからなくなってしまう。

とくに、遺伝子の推定にベイズの公式を使うところは、この本を読む人すべてに理解してもらいたい要だと思うのだけれど、このさらっとした説明で本当に初心者にわかるのかな?  ぼくの経験によれば、物理の人たち(学生さんだけではなく、プロも)の確率論の理解はきわめて低い。 条件付き確率を p(x|y) とします、とか急に言われると、そこでとまどってしまって、けっきょくベイズの公式が自明の理だということを体得し損なう読者が多いんじゃないかと危惧する。 そこに神秘感を抱いたまま読み進むと、遺伝子の推測の場合、事前分布の選択を含めて、すべてが理想的に(かつ、論理的な曇りなしに)進んでいるということを把握できないだろうし、逆に、あとで事前分布をめぐる煩悩にもだえ苦しむあたりの切実さも看過されてしまいそうだ。

要するに、紙幅に余裕があれば、ここに「確率論入門」が入ってくるべきなのだ。 (やっぱり、小冊子という企画には無理があるのだよ。)

他にも、「もうちょっと詳しい一言」がほしいところは散見する。 この倍の分量にしろとは言わない。重い本になってしまうだろうから。 でも、せめて、1.5倍くらいはほしいと思いませんか?  そのあたりが、本当に真面目にこのレベルの内容の科学を伝えられる限界みたいな気がする。


内容に踏み込んだ不満も、あります。もちろん。

統計力学が、(基本的には)マクロな大自由度系のみを対象とする(そのため、大自由度性を積極的に利用する)体系である、という視点がみられない、というのが --- ま、お約束かも知れないけど --- ひとつの不満。 とはいえ、伊庭さんは、統計的推測と統計力学には似ているところもあれば、似ていないところもある、ということを明言しているわけで、別に似ていないところのすべてを列挙する必要があるわけじゃない。 このあたりは、エルゴード性の破れとか、考え始めると深みにはまるところなので、敢えて沈黙を守っていると解釈すべきだろう。

さらに内容に踏み込んでいくと、4.7 節の「統計物理はなぜ事前分布を必要としないか」に書いてることには全く不満です。 というより、ここに書いてあることは、まちがっていると思う。 (等重率の原理と、条件付き確率による推定における事前分布とを、どう対応させるか、という話は置いておく。) 古典論に等重率の原理を適用しようとして出会った困難(固体の比熱の低温での挙動とか、黒体輻射のエネルギーの発散とか)が、量子論の採用で救われた、というのは事実。 しかし、これは等重率の原理の正当性について本質的な問題とは無関係の話。 単に、自然のモデル化が大きく間違っていたのが修正された、ということに過ぎない。 量子論になっても、量子論の設定で、等重率の原理をアプリオリに仮定する必要がある。 その仮定はどうしても必要で、量子論になったからといって、ものごとがわかりやすくなるわけじゃないと思う。


ええと、長くなったので、そろそろ終わりにしよう。

前書きの最後の方で、伊庭さんは、

著者は,はじめて学ばれる方にとっては,初夏の午後の街路のように平穏に歩け,専門家にとっては,足下の影に目を落とせば忽ち迷宮に迷うような本が書きたかった.

と書かれている。 すてきな、そして、大胆な、目標だと思う。 こうやって、高い目標を掲げ、公言し、そして自分を追い込んで、いい仕事をする、という態度は好きです。

さらに、足下にさりげなく用意された、たくさんの「影」。 実際、この本の中には、たくさんの「罠」が仕組まれていて、専門家が落っこちるのを待っているのかも知れない。 ただ、ぼくのように、統計力学の方面のみに突出した「偏った専門家」にとっての最大の罠は、伊庭さんの用意した迷宮に迷って愉しむことではなく、数理統計学という学問の現状についての彼の余りに明快な説明に心から納得してしまうことかもしれないぞ、という気がしています。 「あ、数理統計。つまり、あの事前分布の呪縛から逃走しようとして、アドホックにあれする奴ね」みたいな浅薄な(そして、物理帝国主義丸出しの)しったかぶりに陥ってしまうことのないよう、自らを戒めなくてはと思う今日この頃です。