擬似科学と科学の哲学

疑似科学と科学の哲学

疑似科学と科学の哲学

この本の著者、科学哲学者(という分類になるのだと思う)伊勢田さんをはじめて知ったのは、まだ彼がアメリカのメリーランド大に大学院生として留学していたころだった(今は、伊勢田さんは名古屋大学にいらっしゃる)。出会った場所は、なにを隠そう、インターネットの知的「出会い系サイト」とも言われていた(?)「黒木のなんでも掲示板」だった。いわゆる「サイエンスウォーズ」の関係で、科学畑の人たちを中心に、まじめでしかし肩の凝らない議論をつづけていたところに、科学哲学を専門に研究している伊勢田さんも登場されたのである。いくつかの書き込みから、すぐに、深く堅実な科学哲学的な基盤としっかりした科学の知識とバランスのとれた思考力のある方だということがわかり、私にとっては、科学哲学の分野で大いに信頼できる(実に得がたい)「知り合い」(といっても、「ほら、あのとき掲示板でごいっしょでしたよね」と強引に「関係づけ」ができる程度の知り合いだけど)の一人ということになった。
話はそれてしまうが、当時の「黒木のなんでも掲示板」は web 上の議論と交流の場として実に理想的に機能していた。ハードなものは blog が主体で、掲示板はほとんどが低密度のチャットになってしまった(ように、ぼくには見える)今日の web の姿からすると、これは、ちょっと驚異的な状況だった。ぼく個人についていえば、『「知」の欺瞞』の翻訳と「熱力学:現代的な視点から」の執筆という、二つの(相当にヘビーな)仕事をする際、この掲示板で知り合った仲間たちに(単なる励ましとかではなく、本当に実質的で本質的な意味で)大いに助けてもらったのだ。ぼくの(今でも交流のつづいている)ネット上の知り合い(including 山形浩生さん(と有名人の知り合いであることをアピール))のほとんどは、この時期にこの掲示板で知り合った人たちだといっていい。このような優れた「知的サロン」が存在したのは、単なる偶然ではなく、主催者の黒木さん(東北大学数学)の明確な哲学と適切な努力によるものなのだが、それについて(また、この「サロン」がけっきょくは廃れてしまって、それに類するものは(ぼくの知るかぎり、野尻さんの掲示板を除けば)ほとんど見あたらなくなってしまったことについて)論じるのはまた今度にしよう(いつ??)。
ついでだから、話にあがった二つの本の宣伝をしておこうか。
「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

翻訳者の一人(わし)による紹介ページ
熱力学―現代的な視点から (新物理学シリーズ)

熱力学―現代的な視点から (新物理学シリーズ)

著者(わし)による紹介ページ


さて、本題の伊勢田さんの本だが、タイトルからわかるように、これはいわゆる「科学哲学」の本である。そういえば明らかだろうけれど、気軽に楽しみながら読める本というわけにはいかない。とはいえ、科学哲学の問題をプロが真剣に扱っていることを思えば、(適度の「ゆるみ」もあり)こなれた読みやすい本になっている。こういうテーマに多少なりとも関心のある人にはおすすめしたい。
「科学ってなに?」という問、もう少し正確に言えば「○○って科学なの?」という問にどうやって答えていけばいいのかについて議論した本といっていいだろう。この○○には、「ニュートン力学」とか「量子論」とか「進化論」とか、大きなものをいれてもいいし、「超伝導の BCS 理論」とか(激しく落ちるけど)「強磁性の起源についての Tasaki モデル」とか具体的な理論を入れてもいい。もちろん、こういう場合には「科学だよ」という答が返ってきてくれないと困る。逆に「占星術」とか「水に『ありがとう』という言葉を見せると美しい結晶をつくるというお話」とか「エネルギー源のいらないドクター××××エンジンの理論」なんてのについては、「科学じゃないよ」という答が返ってきてほしいわけだ。
こういう「線引き問題」というのは、お気楽に考えると簡単そうなのだが、まじめに考えれば考えるほど、実は、そう易々とは答がだせない問題だということがわかってくる。というより、答はもともとわかっている気がするんだけど、それを正当化するちゃんとした理屈や考えの筋道を整えるのが猛烈にむずかしい、ということなのかもしれない。
この本では、「線引き問題」が当たり前じゃないんだよということをなっとくさせた上で、じゃ、どう考えるかということについて、いくつかの立場やアイディアをていねいに紹介してくれる。
そのために、第1章では、「そもそも法則ってなんだろう?」とか「実験をして法則を知る・確かめるってどういうことだろう?」みたいな(科学哲学の)基本的なところに戻って、標準的ないくつかの考え方をきちんと整理してくれる。これは、ありがたい。法則や実験の意味について自分なりに考えたことのある人なら、おなじみの考え方や、それらに対する当然予期される「つっこみ」に、それぞれ名前がついているんだなということがわかると思う。あるいは、ちょっと予想していなかった賢い(あるいは陰険すぎる)「つっこみ」があるんだということを発見するかも知れない。こういったテーマについて今までぜんぜん考えたことのなかった人は・・・、うううん、そうだなあ、そういう人がいたら、まあ、この本を読む前に少し自分で考えてみたらいいと思うなあ。あるいは、1章を少し読んだところで、本をとじて自分なりにいろいろ考えるのがいいと思う。その上で、自分の考えと照らし合わせながら、相当に時間をかけて1章を読むべきだろうなあ。そうでないと、そこから先の話しは(本当の意味では)おもしろくないだろうから。
2章以降は、線引き問題についてのよりつっこんだ話になっていく。この本のナイスなところ(の一つ)は、単に線引き問題についてのアプローチを抽象的に述べるんじゃなくて、具体的で、しかも「話として聞くだけでも面白い」例をわりとていねいに説明して、それをネタにしながら、線引き問題へのアプローチの仕方を説明していることだ。創造科学とか占星術についてもかなり詳しい記述があって、こういうのを読んでいるだけでも楽しい(ただし、網羅的な知識を伝えようとしているわけじゃないので、「擬似科学博士」になりたいと思って読む本じゃないよ。また、アチラの世界も日進月歩なようで、創造科学は、今では intelligent design という新たな姿をとって大いに力をもちつつあるらしい(これは、まじで冗談じゃすまされないのだけど)。こういう話しは新しすぎて伊勢田さんの本にはのっていない)。ただ、具体的な話に引き込まれすぎると、そもそも何を問題にして議論をしていたのだか忘れてしまうことがあるので、そこは注意。ときどき論点を思い出しながら、楽しく読むのがいいだろう。
この本が最終的に行き着くのは、「○○は科学か?」という問に対して「白黒をつける」のではなく、ベイズ的な観点から「段階的に白から黒に塗り分ける」という立場である。これは、科学をめぐる風景を外からながめたときの描写としては、きわめて穏健でかつ実際に近いものだと思う(ベイズについての説明は、知らない人には、厳しいでしょうね。でも、書いてあることは信頼できるので、正しい意味での空気はわかると思う)。
念のため言っておくけれど、もちろん、「科学が科学たる所以(ゆえん)」がベイズ的な推定にあるという結論じゃないよ。そんなことは伊勢田さんは一言も言ってないと思う(そもそも「科学が科学たる所以(ゆえん)」なんていう無茶なことには、伊勢田さんは触れていない)。ぼくも科学者の一人として、「科学が科学たる所以(ゆえん)」について漠と感じたり信じたりしていることはあるのだけれど、それは、また、別のモードで考えるべきテーマだろうと思う。とはいえ、物理学者としてひとつだけ強調しておきたいのは、自然科学というのは、非常に多くの、ものの見方や、考え方や、体系や、理論や、実験事実が、互いに整合した巨大で包括的な全体を形作るようにしてできあがっているということだ。自然科学のすごさというのは、個々の体系や理論が信頼できるということだけじゃなくて、この大きな大きな全体が互いに本質的に助け合うようにして支え合っているからでもあるのだ(伊勢田さんも、もちろん、そういうことは理解されているのだが、この本では、あまり強調されていない。それを強調しすぎると、社会科学をおきざりにすることになるからかも)。このあたりについて、もっときちんと書いてみたい気もするし、このままじゃ中途半端だけど、ま、そこは許してください(随分むかしに書いた「普遍性と科学」という文章をご参照ください)。

科学に興味をもっている人、科学の教育を受けた人、あるいは、科学の研究・教育に携わっている人たちの、意外に多くが、「科学ってなに?」とか「○○は科学か?」的な問に無頓着(むとんじゃく)だということが、昔から気にかかっていた。極端な話、「学校で教わったから科学」、「教科書に書いてあるから科学」、「テレビの科学番組で紹介していたから科学」というレベルの人も(残念ながら、少なからず)いるみたいだし、科学者の中にも「『科学の方法』に従っていれば科学」と言ってしまっているような人も(残念ながら、少なからず)います(これがどうしてまずいかは、伊勢田さんの本を読んでね。あと、少し上の世代でちょっと科学哲学をかじったらしき人たちは未だに「科学とは反証可能性を満たすものだ」と堂々と言い放っていますね。これが不十分だということは、伊勢田さんの本のようなものを読まなくても、科学の具体例について真摯に考えてみれば明らかだと思うんだけどなあ・・)。こういうのは、(失礼ながら申し上げれば)明らかに考えが足りないと思うのだけれど、だからといって、科学の具体的な内容を学んだりそれについて考えたりする弊害にはならないだろうし、科学の研究を進めていく上での妨げにも(ほとんどの場合)ならないみたいだ。でもですねえ、こういうところが足りないというのは、やっぱり科学に立ち向かう態度として、「脆い(もろい)」とぼくは思うのだ。科学ってのは、よくも悪くも、そんなシンプルでうすっぺらなものじゃないんだから。普段は大したことはないだろうけれど、何か、今までと極端にちがう局面に出会ったとき、ポキッと「折れて」しまうんじゃないだろうかと心配になるのだ。その「ちがう局面」について語り出すときりがないけれど、たとえば極端な例として、理系エリートがオーム真理教と出会ったとき何がおきたか、みたいなことを考えてほしい(あるいは、(具体例を知っているわけではないけど)相対主義的反科学論に出会って「目から鱗が落ちて」しまった理科の先生とかも想像できてしまう)。
そして、そういう風に「脆く」うすっぺらな態度で科学に接することによって、結局のところ、科学の本当のすばらしさを見過ごしてしまうことになるとぼくは思うのだ。オーム真理教にひっかかるかひっかからないかの問題だけでなく、科学の真のすごみを知るためにも、「脆い」態度は脱皮してほしいわけだ。というわけで、久々に時間のできた日曜日、この本を朝に読了したあと、昼ご飯前に一気に書いてしまったこの(けっこう長い)読書感想文で言いたかったことは、科学のすばらしさを知るためにも、伊勢田さんの本なんかを読んで、「科学ってなに?」というようなところを少し真面目に考えてみようよということに尽きるのでした。